全国的な学力調査の結果がまとまったようです。
最上位の県と最下位の県は少し差がありますが、他の国から見れば、ほぼ等質な集団に見えるはずです。
多分、驚くでしょう。
北海道と沖縄では学期の区切り方も違うのに、学力は、ほぼ一緒なのですから。
ところが、どうしても大人は全国での位置を気にします。
このところ、秋田県や石川県がランクの上位で、他県からの視察も多いのが現状です。
ランクが上だからといって、多くのイノベーターやクリエーターが生まれているわけではありません。
点数が取れているだけです。
この価値観でいいのでしょうか?
視点を世界に移すと、「PISA」というOECDの生徒の学習到達度調査があります。
読解力が下がったと騒いでいましたが、科学的リテラシーや数学的リテラシーは、G7では最上位です。
以前は、どのリテラシーも最上位にいたので、国は問題視しています。
しかし、これもまた、この価値観でいいのでしょうか?
国を富ませるもの
次の1万円紙幣の顔になる予定の渋沢栄一翁は、次々に創業し、国の発展に貢献しました。
学問の課題は幕僚に負けたのかもしれませんが、浅学を恥じず、社会の課題を次々に解決していきました。
松下幸之助、本田宗一郎にしても然り。
要は、社会の課題を見つけることに秀でていて、解決への熱量が途切れないことが素晴らしかったのです。
確かに全国的な学力テストは、日常のテストに比べればも、良問です。
読解力や複合的な思考も試されます。
こんな問題を日常的に考えることができたら素晴らしいのです。
つまり、深い思考や問いを日常化することが大切。
そういった日常の鍛錬の向こう側に、社会の課題を解決する人材が生まれすはずです。
ところが、短絡的に過去問を練習させたり、類題をさせたりすることが起こってしまうのです。
日常の授業が変わって点数を取れるのなら意味がありますが、付け焼き刃の処世術を子供に押し付けるのは、プロの教師ではありません。
点数より大切な、身につけたい力があるはずです。
ちなみに、日本に学力テストで負けているアメリカやドイツは、多様な価値観や発明が生まれて国が豊かになっています。
人口が増え続けている先進国はアメリカしかありませんから、アメリカは比較にならないので、人口が減少しているEUと比べてみましょう。
日本の3分の2の労働時間で、日本の平均賃金よりも上です。
いい加減、点数に一喜一憂しない価値観を教育者が持たなければ、国が危ういです。
良質な労働力を生み出す昭和の大量生産時代であるなら点数主義でも良いかもしれません。
AIが工場を動かす時代、点数の平均点ではなく、個別の強みを活かし、「問い」を持てる子を育てたいものです。
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