常識を疑う

常識を疑う(3) 運動会・体育大会を児童・生徒の手へ

学校には多くの行事がありますが、「誰でもどうぞ」というのは運動会ぐらいしかありません。

不審者対応や新型コロナ対策で違ってはきましたが、つい最近までは年に一度のお祭りでした。

来賓席や敬老席では、久しぶりに会う友人との話も弾みます。

「元気だった?」

「◯◯さんは、入院しているみたいよ。」

などと、近況確認も始まります。

お弁当は、梨や栗、新米のおにぎり、秋の味覚が並ぶご馳走です。

そして、当日の天気を心配しながら弁当の準備をするお母さんたち。

場所取りに頭を悩ませるお父さんなどもいたはずです。

まさに、一大イベント。

しかし、その影で運動会を憂鬱に感じながら待っていた子供も多かったのです。

生徒が自ら選択

いくら頑張っても、ドタバタ感があって、先頭から大きく遅れてゴールに入る生徒はいます。

最後まで頑張るのが大切だともっともらしく励ましても、次の年も同じ光景が続きます。

勉強なら、多くの人が見ているところで、自分が一番できないことを知られることはありませんが、運動会は残酷です。

とっても足の遅い子は小中学校の9年間、最後尾を走ります。

「最後まで頑張るのが大事」

という励ましは、衆目の前で晒し者になる当人の気持ちからは大きく離れているはずです。

その子の親にとってもです。

となると、ある一定の数は犠牲と割り切って行う行事だとも言えそうです。

そこで、本校の先生は、生徒に走ることと力を競うことのどちらかを選択させました。

つまり、走りたくない生徒は、20メートルの長いロープに繋がれたタイヤを自分のところまで引き寄せる競技を選ばせたのです。

すると、走る時は下を向いていた体の大きな生徒たちは、顔を真っ赤にしタイヤを引き寄せます。

タイヤがゴールに届くと、渾身のガッツポーズ。

走る時にはみられない光景が広がります。

一部の生徒だけの運動会ではなくなります

企画も生徒に

そこで、昨年から、企画運営を生徒に任せることにしました。

昨年は、この挑戦が初めてだったこともあり、生徒の企画書は50枚にも及びました。

やらされていた時とは違い、自分でやるとこだわってしまうようです。

開会式から、生徒のアイデアが満載で、楽しい時間が過ぎていきます。

コンセプトは、「全員が楽しいと思える体育大会」です。

放送も、走っている生徒の趣味や決意などが紹介され、増田明美調です。

ずいぶん取材もしたのでしょう。

これまでの放送は何も心を打ちませんでしたが、事前の準備がわかるアナウンスは見事でした。

生徒の企画ですから、先生たちから見れば十分ではないし発想的にも心配ですが、そんなのはお構いなし。

何しろ見世物ではなく、生徒が楽しむことと、成長することを目的にしているのですから。

借り物競走、風船割り、さらにはサッカーなど、これまでにないものが目白押しです。

最後の閉会式では、実行委員のヒップホップダンスに、団長によるトークなど、常識の中に住んでいた大人は目が点の状態です。

ちなみに校長の講評もプログラムにはありませんでした。(後日総括をしました)

お腹の筋肉が痛くなるくらい笑い弾ける生徒が、そこにはいました。

生徒にとって

3学期になって、高校の面接指導をする中で、

「中学校生活で一番の思い出は何ですか?」

と質問をしました。

私が予想していたのは、修学旅行や部活動です。

ところが、多くの生徒が前述の体育大会を挙げたのです。

自分たちで作り上げる充実感は、大人の私が想像するよりもずっとあったのでしょう。

 

生徒を当事者にすると、こんな奇跡が起こるのです。

 

さて、次回もこの奇跡の続きをお話しします。

今回はここまでにします。

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