常識を疑う

常識を疑う(1) 運動会・体育大会ー1

先週、新型コロナウィルスの影響で延期になっていた体育大会を開催しました。

昨年同様、企画を生徒に任せたことで、感動の1日を過ごすことができました。

胸が熱くなり、言葉に詰まるなんて、想定外です。

教員生活の最後に、どうしてこの時を迎えられたのか?

物語は、数年前に始まりました。

運動会は誰のもの?

私の前任校は、小学校。

そこに、4年間いました。

運動会というのは、学校にとっても、保護者にとっても、地域の人々にとっても大イベントです。

運動会はあって当然であり、中止はなく、雨天でも延期をして開催します。

昔は、開催の有無を地域に知らせるために花火まで上げていました。

大イベントです。

学校の行事で花火をあげて行うものは、運動会以外にありません。

花火をあげるということは、地域に対して

「皆さん、どうぞ、学校にお越しください。楽しい運動会が始まりますよ。」

とメッセージを出していると同じことです。

地域に伝える必要がなければ、電話連絡網や一斉メールの配信で対応できます。

地域の中には、夜遅くまでの仕事で、早朝に起こされたくない人もいますからね。

運動会の起源が明治期の海軍兵学校というのも花火への関連を匂わせます。

わざわざ、同じくらいの力のグループに分けて戦わせ、「赤団」とか「白団」という言い方もします。

私が子供の頃は、運動会の入場の時に、朝礼台に立っている校長先生に対して、右手を胸から右斜め上に伸ばして行進しました。

今、そんなことをやっているのは、中国か北朝鮮くらいでしょう。

戦争に負けた日本では、時に学校の先生が反戦を訴え、組合活動なども激しい時期がありました。

しかし、手をあげて行進するのを認めていたのですから、お粗末です。

話が横にそれました。

とにかく、運動会は花火をあげるくらいの大イベントであることは、今も変わりありません。

好き嫌いが分かれる運動会

明日が運動会ともなれば、子供の多くは、「やったあ、運動会だ。」

と喜びますが、数割の子にとっては苦痛でもあります。

しかし、この大イベントは逃げようがありません。

日頃は学校に来ないおじいちゃんやおばあちゃんまで応援に来ます。

お母さんは、遠足の時の何倍もの豪華な弁当作りにアタフタしています。

「運動会は、嫌い。」

とは言えない雰囲気です。

しかし、足が速い子にとっても、自分の走る番が近づくと緊張が高まります。

私は足の遅い方ではありませんでしたが、自分の前の走者が一列ずつ減っていく時の気持ちは、今でも思い出せます。

足の遅い子にとっては、どうだったんでしょうか?

体の大きな子はいつも苦しそうに後から走っていました。

「がんばれ!」

の声援を毎年もらいながら、先生からも「最後まで頑張るのが大切」と言われて走っていたあの子。

しかも、何年間も繰り返される光景。

あの子にとっては、屈辱であり、晒し者にされた感覚はなかったのかと想像してしまいます。

そこで、自分が校長になった時に、いくつか改善してみたのです。

そのことについては、次回お話をします。

今回はここまでにします。

次回をお楽しみに。

 

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