鼻の癌について

癌を生きる(28) 非常が正常

今日は入院前の検査を受けてきました。

検査と言っても、新型コロナウィルス感染を調べるPCR検査です。

このウィルスは、私たちの社会の邪魔をいろんなところでしてくれます。

検査は実に簡単。

単純に口の中に溜めた唾液をカプセルに入れて提出するだけです。

入院前にこんな検査が当たり前になるとは、数年目までは想像もしていませんでした。

当たり前でない日常は、いつしか当たり前になっています。

制約を受け入れる

病院内の待合室の患者は、全員マスクをしています。

医師も看護師も事務員も全てです。

病院を出て、駐車場の係も街ゆく人も全て。

口元を見せないことが普通であり、見せると悪者扱いです。

鼻が詰まっている私は、時々苦しくなってマスクを外して鼻をかみます。

マスクをしてはいますが、大きなクシャミもしてしまいます。

なんだか罪悪感を感じます。

人間の正常な反射でさえも、人に遠慮しなければならない今の世の中は窮屈です。

しかし、変えることが窮屈だと主張をしていては生きていけません。

今の状態を、普通だと考え、その中で発想することが大切です。

江戸時代、倹約を強いた幕府は、庶民の服は茶と鼠色に決めてしまいました。

大人の服の色まで制約をかけるとは、今の世のブラック校則どころではありません。

そこで、庶民はおしゃれを諦めたのか?

答えは、諦めませんでした。

48茶100鼠(ねずみ)

つまり、48種類の茶色と100種類の鼠色を生み出して楽しんだのです。

制約の中に自由を求める見事な発想です。

この発想は現代の日本人にも引き継がれていて、諸外国に比べて、マスクのバラエティはすごいです。

制約の中の自由の発想は、今後も期待できそうです。

そういえば、マスクのおかげで、最近は髭剃りもサボって、口髭もいい感じになってきました。

不自由という普通

一生の間ずっと健常な状態でいる人は、どれだけいるのでしょう。

働き詰めだった私の両親は、晩年、二人とも半身が動かない状態でした。

生まれつきの方もいるでしょうし、途中からの人もいるでしょうが、体の障害は全員が向き合わなければならないものです。

自分は大丈夫だと思っていても、記憶力が落ちるし、目は遠くなるし、肩は回らないしと次々に不自由をもたらすものがやってきます。

今の私は、息が上手にできないという不自由の中にいます。

明日からの入院で、その不自由さが軽減されれば有難いですが、この後もいろんな不自由が、手ぐすねを引いて待っているのでしょうね。

だからこそ、不自由であるのが普通と考え、その中でできることを考えようと思います。

 

手術は2日後。

術後の不自由も乗り切ります。

 

今回はここまでにします。

続きはまた次回。

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