今日は入院前の検査を受けてきました。
検査と言っても、新型コロナウィルス感染を調べるPCR検査です。
このウィルスは、私たちの社会の邪魔をいろんなところでしてくれます。
検査は実に簡単。
単純に口の中に溜めた唾液をカプセルに入れて提出するだけです。
入院前にこんな検査が当たり前になるとは、数年目までは想像もしていませんでした。
当たり前でない日常は、いつしか当たり前になっています。
制約を受け入れる
病院内の待合室の患者は、全員マスクをしています。
医師も看護師も事務員も全てです。
病院を出て、駐車場の係も街ゆく人も全て。
口元を見せないことが普通であり、見せると悪者扱いです。
鼻が詰まっている私は、時々苦しくなってマスクを外して鼻をかみます。
マスクをしてはいますが、大きなクシャミもしてしまいます。
なんだか罪悪感を感じます。
人間の正常な反射でさえも、人に遠慮しなければならない今の世の中は窮屈です。
しかし、変えることが窮屈だと主張をしていては生きていけません。
今の状態を、普通だと考え、その中で発想することが大切です。
江戸時代、倹約を強いた幕府は、庶民の服は茶と鼠色に決めてしまいました。
大人の服の色まで制約をかけるとは、今の世のブラック校則どころではありません。
そこで、庶民はおしゃれを諦めたのか?
答えは、諦めませんでした。
48茶100鼠(ねずみ)
つまり、48種類の茶色と100種類の鼠色を生み出して楽しんだのです。
制約の中に自由を求める見事な発想です。
この発想は現代の日本人にも引き継がれていて、諸外国に比べて、マスクのバラエティはすごいです。
制約の中の自由の発想は、今後も期待できそうです。
そういえば、マスクのおかげで、最近は髭剃りもサボって、口髭もいい感じになってきました。
不自由という普通
一生の間ずっと健常な状態でいる人は、どれだけいるのでしょう。
働き詰めだった私の両親は、晩年、二人とも半身が動かない状態でした。
生まれつきの方もいるでしょうし、途中からの人もいるでしょうが、体の障害は全員が向き合わなければならないものです。
自分は大丈夫だと思っていても、記憶力が落ちるし、目は遠くなるし、肩は回らないしと次々に不自由をもたらすものがやってきます。
今の私は、息が上手にできないという不自由の中にいます。
明日からの入院で、その不自由さが軽減されれば有難いですが、この後もいろんな不自由が、手ぐすねを引いて待っているのでしょうね。
だからこそ、不自由であるのが普通と考え、その中でできることを考えようと思います。
手術は2日後。
術後の不自由も乗り切ります。
今回はここまでにします。
続きはまた次回。
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