常識と言われる固定観念では、全校リレーはプログラムの最後です。
大きな声の声援の中、疾風の如く走り抜ける一部の選手が勝敗を決めていきます。
果たして、これでいいのでしょうか。
私は、勝負をつけるのは全員でできないかと考えました。
つまり、全校団技の形です。
ところが、これが大きな波紋を呼びました。
全校リレーはだれのもの?
全校の子供達に、アンケートをしました。
運動会の最後は、全校リレーがよいか?全校団技が良いか?
つまり、最後の勝負は、一部の走るエリートに決めさせるか、全員で決めさせるかです。
結果は、全校団技が8割でした。
毎年、主役は一部の子供達が独占し、勝ち負けが決まっていたのですが、機会があれば自分たちで勝敗を決めたいと思っていたのです。
ところが、全校リレーの選手の保護者の一部が大反発しました。
「全校リレーは、プログラムの最後が当然だ。」
「全校リレーが最後でないというのは、おかしいとみんな言っている。」
「全校リレーを皆で応援するのが、常識だ。」
私は全校リレーという競技をなくそうなどとは言っていません。
競技は、午前中の最後に持ってこようと思っていました。
多くの方は、お弁当を食べたら帰るので、午前中の最後の締めにちょうど良いと思っていたのです。
しかし、全校リレー選手の保護者数名が校長室にやってきました。
要は、全校リレーをプログラムの最後にしろということです。
常識外れをするなと。
私は、アンケートの結果から、勝敗を最後に決めるのは、全員でやる方が教育的な価値が高いと譲りませんでした。
どんな理由を並べようが、一部の人に独占されることが良いこととは思えません。
学校の運動会のプログラム順に口を出すこと自体、どうなのかとも思いました。
結局、最後から二番目のプログラムにしましたが、午前中の最後の競技と比べて観客は半分になっていました。
私の予想通り、全校での団技は盛り上がりましたし、職員はもちろん、観客にも新たな形を示せたと思っています。
しかし、何とも後味の悪さが残りました。
運動会は、一部の子供のもではなくみんなのものなのですから。
見せ物からの脱却
しかも、これまでの運動会は、見世物的な要素が強すぎでした。
ですから、列が少し曲がったり、集合の速さが揃わなかったら、先生から叱られていたのです。
人様を招いて見てもらうのだから、良いものを見せなければならないという呪縛に皆が囚われていた気もします。
この考え方を通すと、いつまで経っても、皆が楽しい運動会にはなりません。
嫌な思いや苦手な思いをしている子供に我慢させてでないと成立しません。
運動会は、全ての子供たちが楽しめるものであることが一番です。
きっと、答えがあるはずです。
そんな運動会を実施したい。
私の思いは強くなりました。
この思いを、今の中学校で実現しました。
Anyone OK
です。
どんな形なのかを次回お話しします。
今回はここまでにしますね。
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