年度末になり、仕事が次から次に襲ってきます。
校長としての経験も積み重なっているはずなのに、効率的な仕事になっていません。
老化でしょうか?
そうは思いたくありません。
世の中が忙しくなってしまった気がします。
要点化されていない大量の資料が、毎日これでもかと言うくらいに学校に届きます。
たしかに、PDF化されたデータは、内容の詳細までわかります。
しかし、それを隅から隅まで読んでいては、仕事になりません。
もっと効率化しなければ、日本人の生産性は上がらない気がします。
そんなことは誰もが感じているはずなのに、データの波が年々大きくなっています。
私は、その原因はアリバイづくりだと思っています。
誰かに責めらないためです。
アップアップの教育現場
教育現場には、◯◯教育が突然やってきます。
「がん」に対する偏見が問題になれば、がん教育
カード破産が問題になれば、金融教育
それに加えて
人権教育、交通安全教育、環境教育、情報教育、消費者教育、・・・・
なんでも、「教育」がついてきます。
これからも社会で問題が顕在化すれば、◯◯教育と名がついて学校にやってくるはずです。
とにかく子供たちに失敗をさせない教育のオンパレードです。
「子供たちが将来困っていいのか?」
の責めに対するアリバイです。
とても無理があります。
子供たちが将来出会う全てもトラブルを予想して、◯◯教育のラインナップを完璧に準備することはできません。
教育の1番の役割は「問い」を持たせて、トラブルを解決する力をつけることです。
それなのに世の中の課題を次々に大人が教えて、子供たちの力を奪っています。
優しいようで、優しくないのです。
しかも、そのラインナップ自体全てを学校だけでやるべきかも疑問です。
例えば、学校でいくら交通安全教室をしたとしても、家庭でそれがなされていないとしたらどうでしょう。
こんな場面を想像してください。
場面設定 夕方の仕事を終え、息子のノートを買いに車で出かけた親子
母親「急いでスーパーでノートを買いましょ。夕飯の支度もあるからね。」
息子「ごめんなさい。休みの時に買っておけばよかった。」
母親「仕方ないわね。とにかく急ぎましょ。」
息子「お母さん、今の信号は黄色だったよ。」
母親「いいの、今は急いでいるんだから。」
よくありがちな光景です。
人は聞いたものより、経験したものが記憶に残ります。
学校でいくら交通安全教室をしたとしても、これでは建前しか学ばなかったことになります。
建前だけを学ぶなら学校の価値は下がります。
学校でのラインナップは見直すべきです。
いまのままだと、◯◯教育に押しつぶされそうです。
「忙」は「心」が「亡くなる」ことです。
教える先生の心も、学ぶ子供たちの心も大切にし、どんと構えた教育をしたいものです。
退職まで、あと1週間。
今回はここまでにします。
次回をお楽しみに。
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