最近、社会の格差が問題視されるようになりました。
富裕層と貧困層の所得格差を表すジニ係数で判断すると、我が国の格差は少し広がっています。
ただ、福祉の面を考慮し再分配係数は改善していますから、一概に格差が広がったとは言えません。
GAFAみたいな1%未満の金持ちが国富の半分を持つ自由の国アメリカと、8000万人の共産党員が国富を独占する中国のどちらも舵取りが難しいようですから、富の格差の問題の根は深いようです。
ところで、私が問題にしたいのは、生きる力の格差です。
生きる力の貧困
最近は、お茶やおにぎりをコンビニで買うことに躊躇わなくなりましたが、初めてそれらを買う時に、なんだか後ろめたさがありました。
理由は、原価があまりにも安いからです。
例えば、おにぎりは、米と水、電気、具を合わせても三十円あればできます。
お茶なら、十円未満でしょう。
自分で作ることのできる社会人が、必要に応じて、それを買うのは便利でとても良いと思います。
しかし、都会のフリーターが、お金がないと嘆きつつ、コンビニのおにぎりを買う姿を見ると違和感を感じます。
お金がなければ、できることをやればいい。
お米を研いだりお茶を沸かしたりをするだけではなく、自分でできることを身につけないと、自分の生活は全て他人頼みになってしまいますし、改善できません。
人間は一旦楽なことを覚えたら、楽でないことに戻るのはとても難しいし、戻る必要すら感じません。
どうして、生きる力を失った若者が育ったのでしょうか?
学校では入試に関係ある教科が優先され、家庭では、家庭の役割を果たすよりも勉強をさせたいと親が望み、便利な世の中に甘えたからでしょうか?
このままでは、家庭の味も知らないし、生きる力が貧弱な大人が育つかもしれません。
昔は、各家庭で味噌を作っており、その自慢も含めて「手前味噌」という言葉が生まれたみたいです。
味噌を混ぜる時の母親の手に付いている菌によって、家庭の味噌の味が決まり、家族全員の腸内細菌も同じになって、それが受け継がれてもいたようです。
今は工場味噌になっていますが、味噌汁は各家庭で味も違うはずだと思っていましたが、スーパーの食品売り場ではインスタントが幅を利かせています。
生きる力につなげるひと手間
以前、中学校から親元を離れて高校に通う生徒に「一番食べたいものは何ですか?」といった調査がありました。
一番は、なんだと思いますか?
正解はお母さんがつくったおにぎりでした。
(男女共同参画の社会の今では、両親の作ったおにぎりになるのが理想でしょうが)
実際、体は親父の大きさを越えた高校生の男子が、母親から届けられたおにぎりを泣きながら食べるシーンもあったようですから、おにぎりのパワーは絶大です。
おにぎりは、各家庭で大きさも違うし、塩加減、形、中の具にも違いが出ます。
500円を出せば、結構贅沢な弁当も買えますが、家庭で作られたおにぎりの方が、豊かでもあるし、母親そのものを感じられると思います。
各地で広がっている子ども食堂でも、そういうスキルを共に学ぶ運動も広がっているようです。
井戸を掘ってあげて水を与えるか?それとも、井戸の作り方を教えるか?
魚をあげるか?釣り方を教えるか?
答えを教えるか?解き方を教えるか?
いつもではありませんが、必要な時に、おにぎりの作れる若者をつくりたいものです。
今回はここまでにします。
次回をお楽しみに。
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