昨日、自分の家の定期点検をダイワハウスさんにしてもらいました。
自分なりにはメインテナンスはできているつもりでしたが、経年劣化はちゃんと進んでいました。
家を建てる時は、いろいろと夢を描き、間取りを考え、家具の配置を決めました。
フローリングもピカピカで、少しでも汚れたら気になったものです。
しかし子育てをする間に、床は子供のおもちゃで蹂躙(じゅうりん)され、雨風で外壁は痛みました。
色褪せた外観は見苦しいので、何度か外壁をリフォームし、イメージを変えたこともあります。
しかし鉄骨でできている家なので、地震には強いのですが年数が味になりません。
侘び寂び
奈良に行くと、力強い仁王像や力士像に会うことができます。
像は、いくつかの木のパーツでできており、色はありません。
木の持つ本来の色が時間をかけて落ち着き、像の迫力に渋みを与えています。
これらの像は元々は赤や黄色、緑の原色を纏(まと)っていました。
しかし、日本の湿潤な気候に長年晒(さら)されると、だんだんと色が落ちていき、色を重ねなければ、下地の木が顔を出します。
私たちの先祖は、色を重ねず、色が落ちていく様に価値を見出しました。
もし中国的な美意識だったら、今も京都や奈良のお寺は様々な原色で飾られていたはずです。
法隆寺にしても、東大寺にしても、完成当時は色の迫力で圧倒していたはずです。
観音像にしても然り。
国宝の千手観音も、最初は色鮮やかな美しさだったのです。
しかし、色を加えて修復することはなかった。
それが、私たち日本人の奥ゆかしさかもしれません。
「寂(さ)び」とは、錆びることも含めて、劣化したり、足りなくなったりする様子。
「侘(わ)び」とは、足りなくなった世界、寂びていった世界を味わう心の持ちようです。
そう言った精神性が私の心の中にもある気がします。
ですから、古くなった鉄骨の家よりも古民家のような、木造に味を感じるのかもしれません。
(だからと言って、快適な現代住宅を手放し、どっぷりと足りなさを感じる古民家生活の日常に入る勇気はないのですが)
さて、自分自身を考えると、今だに飾りたい自分がいて、見栄えを気にしています。
新しいものを手に入れることより、今あるものの価値を見出だせるようになりたいものです。
自分の内面の「侘び寂び」はこれから育つのかもしれません。
今回はここまでにします。
次回をお楽しみに
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