「ブラック校則」という言葉が、いつの間にか市民権を得ました。
昔は、ルールは守るものであり、疑義を挟むと生意気だと言われました。
そう言えば、守るものに徹した藩が昔ありました。
明治維新で敗れた会津藩です。
会津藩の子供は10歳になるまでは「什(じゅう)」と言われる十人前後の組に分けられます。
そこで行われる教育にはルールがあり、
年長者の言うことは素直に聞く
年長者にお辞儀をする
卑怯なことはしてはいけない
などのルールがいくつか並べられており、最後には「ならぬことははならぬ」と締め括られれいます。
鉄の結束を誇った東北武士の心はここで育ったのでしょうが、ある面融通が効かず時代から取り残されました。
先日、生徒と校則をみなしたのですが、実は曖昧な「中学生らしさ」が幅を利かせていることがわかりました。
曖昧な「らしさ」
髪型にしても、態度にしても、「中学生らしさ」が求められており、それでルールが作られています。
しかし、中学生らしさは、金太郎飴のように等質なのでしょうか?
かつて、第2次産業がこの国を牽引していたときは、素直に決まりを守って工場で働く人が求められていました。
等質な人間づくりが社会からも期待されていました。
何しろ製造業は国のGDPの6割以上を生み出していたのですから。
しかし、今6割を生み出しているのは、第3次産業です
発想や独自性で勝負する分野です。
それなのに、曖昧な「らしさ」で縛るのは乱暴でもあるし、未来を生きる力を奪うかもしれません。
反対に、大人らしいのは、どういう状態でしょう
「大人(おとな)しい」とは、静かで黙っている状態。
物言わぬ昔の日本人が想像できます。
今や、そうではありません。
今、中学生は全国に300万人います。
その子たちに、「中学生らしくしなさい。」
と同じを求めることが正しいとは思えません。
しかも、指導する先生が思い描く「らしさ」がそれぞれ違っていて、違いを無くして揃えるために、昔のものをそのまま使っているとしたら、罪深い。
「らしさ」は周りに迷惑をかけずに、自分を表現すれば良いはずです。
社会をしばる「らしさ」
実は、「らしさ」に私も縛られています。
父親らしさ
校長らしさ
男らしさ
本来答えは一つではないはずなのに、小さな入れ物に閉じ込めるように「らしさ」が要求されます。
皆と同じであることが正解なら、私は私である必要がありません。
良いところも悪いところも含めて私であり、それが魅力であり、欠点でもあります。
私が私であることに価値があるのです。
英語でユニークという単語があります。
一つだからユニークなのです。
ですから、私の学校では、生徒にユニークを許すことに取り組んでいます。
もちろん外見だけで中身が空っぽの「らしさ」は肯定しませんが。
今回なお話しはここまで
次回をお楽しみに
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