どんな人でも、他の人によりよく評価されたい気持ちはあるはずです。
しかし、評価の際にあまりに差が大きいと、エコ贔屓と受け取られてしまうことがあります。
それを分かった上で、私はエコ贔屓があった方がよいと考えています。
なぜでしょう?
平等なる偏愛
普通、組織や学校で生徒や職員にエコ贔屓をしたら、管理職としては失格です。
しかし、全員が
「自分はエコ贔屓されている。」
と勘違いしている状況ならどうでしょうか。
言い方を換えると一人一人が
「自分は、特に大切にされている。」と感じる状況です。
もし、一人一人が、そう感じてくれる雰囲気を作れたら、全体の場での話も違ってきます。
会社でも学校でも全体の場で説明をしたり、大切なことを伝達したりすることは多いですよね。
この全体の場での話で問題なのは、聞いている方が「個人」になっていないことです。
自分一人をターゲットに話があっているわけはなく、スルーしても構わないし、分からなければ誰かに聞けばいいといった雰囲気では、うまく伝えることはできません。
最近は、SNSなどのグループ機能を使って全体に知らせたりもしますが、これも個人よりぼんやりとした全体に伝える感じになってしまっています。
全体での伝達を個人への伝達だと感じられたら、伝達する方もされる方も幸せです。
このことを学校を具体例にあげて考えてみます。
全体に向かって先生が笑顔を見せた時にチラッと目があった全員が、
「あの先生の微笑みは、きっと自分だけに向けられたものだ。」と感じたら、しめたものです。
ある意味、自分は先生に贔屓(偏愛)されていると、全員が思ったら、それは平等でもありますし、話もよく伝わります。
オーケストラは、活躍の目立つバイオリンと滅多に顔を出さないチューバ(ドボルザークの新世界では45分中1分程度)など、様々な楽器に支えられています。
その演奏者にとって、一番大切なのは指揮者との関係のようです。
カラヤンは、全ての演奏者に、個別の一対一の関係を意識させるのに優れている言われていました。
全体に振られているタクトでさえ、一人一人の演奏者が、
「あのタクトは自分のために振られている。」と意識することが、仕上がりを素晴らしいものにするようです。
本来、指揮者のタクトは始めるタイミングと終わるきっかけを与えるものでしょうが、こういった関係を作り上げれば、指揮者が髪を振り乱して伝える情感さえ、自分だけに向けて伝えてきていると感じられるのでしょう。
ですから、全員に向けた話であっても、一人一人が自分に向けての言葉だと思えたら、全体での結果も大きく変わるのです。
なんでもないコミュニケーションがとても大切だと思えます。
人は言葉で生きています。
今回はここまでにします。
次回をお楽しみに
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