人生の黄昏時期に差し掛かっている私は少年期を思い出すことがあります。
どうしてでしょうか。
懐かしい匂いや音、皮膚感覚まで蘇ってきます。
昨日の昼ごはんのメニューさえ忘れるのに、刷り込まれた記憶になっています。
ボディーサーフィン、釣り、昆虫採集、メンコ、ビー玉、かくれんぼ、自然の甘さを求めての散策・・・。
スマホ全盛の今とは違い、遊びのフィールドはリアルな大自然。
そこには、用意された遊びがあるのではなく、自分で働きかけると答えてくれるワンダーランドがありました。
あまりに楽しくて、暗くなって慌てて家に帰るくらいの夢中の時でした。
勉強は、ほとんどしませんでしたが、その遊びで覚えたことが今も染み付いていて、自分のベースを作っています。
今日は、遊びと学びや人生との関係を少し掘り下げてみます。
波の怖さ
今は保護者と一緒でなければ行けない海ですが、半世紀前は子供だけで行くのは当たり前でした。(我が家だけ?)
親は子どもが海で溺れないか心配しなかったのでしょうか?
気をつけることだけをきつく言い聞かせ、あとは信じていたのでしょう。
日向灘の海水浴は、波の高さが魅力です。
浜辺から見ると大人の身長くらいの波が次々と打ち寄せてきます。
この波は海に入っているともっと大きく感じられ、慣れていないと大人でもビビります。
胸ぐらいの深さまで海に入ると、陸上よりも3、4倍の高さの波に感じるからです。
しかも、崩れる波に巻き込まれたら、体は水中でスクリュー状態となります。
海面がどの方向かさえ分からなくなることもしばしば。
分かったとしても肺に残っている空気は底をつきかけていて、苦しい状態でやっと海面に顔を出せるのです。
ところが、やっと海面に顔を出して息が吸えると思いきや、そのタイミングで次の波が崩れかかることもあり、海の洗礼を浴びることになります。
少し慣れてくると、波に巻き込まれても、余裕を持って海面に顔を出せるのですが、気持ちの弱い子は、そこでビビってしまい海の楽しさを知らずに海から離れてしまいます。
私たち悪ガキにとっての最大の楽しみは、ボディサーフィン。
今みたいにボディボードを買うこともできませんでしたか、自分の体を上手に浮かせて楽しんでいたのです。
波が崩れる微妙なタイミングを測って、水を掻いて波の上部から綺麗に滑り降ります。
すると、自分の胸から腹の辺りに崩れた白波の雲ができ、その上に乗って進めるのです。
これは、本当に微妙なタイミングと体のバランスが必要で、県外の人に何度も
「どうして、板も何も使っていないのに、そんなに上手に波に乗れるの?」
と尋ねられました。
そして、この技術を極めるには知識と経験も求められました。
海の中で良い波を待っていると沖から続けてやってくることがあります。
連続の波は、よく見極めなければなりません。
最初の波より、次の波の方が大きかったり、最後の波を期待したら小さかったりするのです。
そこは、経験。
それに波は高さだけではなく、強さも大切な要素です。
素直な波なら有難いのですが、潮の満ち引きの関係で崩れやすかったり、途中で小さくなったりします。
ですから、自分が楽しんでいる時間は、満ちている時間なのか、それとも干いている時間なのかも気にしなければなりません。
干潮や満潮、海風と陸風などを中学校で学びますが、そんなことは遊びの中で全部覚えていったのです。
(ただ、テストで意地悪な問い方をされると間違ってしまう私たちですが)
テストに正解するためではなく、楽しむため、生きるための知識が遊びに詰まっているのです。
今、外での遊びが減っています。
安全なとこだけで遊び、怖さはアミューズメントパークでという感じになっています
本当は、大自然のそれが凄いのに。
次回も、この続きにお付き合いください。
今回はここまでにします。
次回をお楽しみに
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