鼻の癌について

癌を生きる(35) 病を見ずして、人を見よ

明治期の医師の2つの巨塔は、陸軍軍医の森鴎外と海軍軍医の高木兼寛です。

高木兼寛を以前深く調べたことがあるのですが、自分が病を得て、彼が残した言葉を強く納得するようになりました。

彼は、今の宮崎県出身(薩摩藩)で、幼い頃から俊才でした。

薩英戦争で敗れた薩摩藩は、能力の高い若者をイギリスに留学させます。

錦江湾から大規模砲撃を受け、散々に負けた薩摩藩でしたが、薩摩藩の優れたところは、いつまでも敵対せずに、負けた相手に学ぼうとしたところです。

明治期の医学は、ドイツから学んだ人たちが主流でした。

そのため、今でもカルテはドイツ語です。

その主流ではないイギリスで勉強したのが高木でした。

脚気(かっけ)との戦い

明治期の兵隊さんが悩まされていたのは、脚気でした。

下手をしたら、敵にやられた数よりも、脚気(かっけ)で亡くなる数が多かったのですから。

流行病だと結論づけようとするドイツ医学の陸軍に対して、食事に原因を求めたのがイギリス医学の海軍でした。

その海軍の医療を担当したのが高木でした。

彼は、白ごはんを麦ご飯に換えました。

白米を腹一杯食べたい田舎出身の兵隊さんは、大反対。

しかし、結果は、脚気患者の激減でした。

つまり、ビタミンBが不足していたのです。

先に、原因を突き止められた森鴎外は歯軋りしたことでしょう。

 

後に高木がビタミンの父と言われた由縁です。

その高木が残した言葉が、

「病を見ずして人を見よ」

です。

 

医療の常識ではなく、患者一人一人としっかり寄り添って病を考えるということです。

このことは、現代でも通じます。

現代の「高木」

私の治療は今も続いていますが、いつも感心させられるのは、私の担当医です。

病院の待ち時間は、長いことがあります。

時には、自分の名前が呼ばれたのかを確かめに行ったり、どの程度待てば良いのかを尋ねたくなったりします。

しかし、私の担当医には全くその感情が湧きません。

待たされているのに、私は、逆のことを思ってしまいます。

「待ってくださりありがとうございます。お世話になります。」

担当医の誠意、責任感、賢明さが、いつも伝わってきます。

どうにか治して質の高い生活を取り戻させたいという想いも感じます。

ここでは、詳しく書けませんが、診療時間外の対応、配慮、たかが一個人に、自分の時間を削ってまで融通を効かせる担当医にいつも頭が下がります。

医師は、社会的に信用もされ、地位も高い。

それにあぐらをかいて、仁術を忘れる医師もいる。

しかし、本当の医師は、彼のような患者を感動させる人ではないかと受診のために思います。

彼もまた、「病を見ずして、人を見ている」のです。

仕事でも、学校でも、固定概念だけで判断するのではなく、人そのものを見ないといけないですね。

 

今回はここまでにします。

次回をお楽しみに。

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